詳しければ、それが正義なのか?――最新機器の落とし穴

ここ最近、とある事情(下記参照)でLinuxを始めとしたネットワーク系のドキュメントを読み漁ってました。そこで感じたこととしては、やはり難しい(^^;;; 自分の頭の限界と言うのももちろんあるのですが、たとえばLinuxでPPPを扱うデーモン、pppdの使用方法などはあまりに複雑すぎて、ちょっと使わなくなって時間が経つと、絶対ドキュメント無しでは使えなくなります。


こういったGUIに対するCUIというのは、シェルスクリプトや入力補完などといった「自分向けカスタマイズ」を極限まで行える、と言う点で上級者に好まれている面があると思います。それは、裏を返せば環境が変わると効率ががた落ちすると言う事でもあり、使いやすい環境の構築をユーザーに任せっきりにしている、と言う言い方も出来ると思います。その構築に要する気力がない人にとっては使えません。


「使いやすいカスタマイズ」は、ただの設定にとどまらず、時に新しいアプリケーションを自分で作ることにまで及びます。コンソールが使えなければ話にならないLinux等の文化では、「詳しいことこそ正義」というポリシーが根付いている印象があります。


もちろん、コンピュータを使ったサービスを提供しているプロにとっては、それは間違いありません。が、一人一台PCの世界も夢でない今の時代だと、むしろもっとコンピュータが人間に歩み寄るべきでは?というのが個人的な考えです。こういう考え方は、どちらかというとWindowsに近いものがありますが、もちろんWindowsも何の教育も無しに使えるか、というと大いに疑問が残ります。もっと大元の話をすると、タイプライターの打ちにくい形態を引き継いだ旧態依然のキーボードと、2次元方向しか動かせないマウス、テレビのような2次元の画面、という処理能力の進化の割に全く変わってないインターフェース自体が大きな問題です。


かつて、汎用機しかなかった時代、紙テープ上にコード化されたデータをコンピュータに入力する人は、相応の教育を受けたオペレータだったそうです。比べて今は、人とコンピュータの距離は縮まっているとも言えますが、未だキーボード等に拒絶反応を示す人を多く見かけます。コンピュータが、人の召使になってくれる日は、いつ来るのでしょうか?